2007年11月25日日曜日

この100日間

メールボックスを見返してみると、横山さんから0to1の発足を伝えるメールを頂いたのが8月9日、佐々木さんから初めてメールを頂いたのが8月17日でした。
それからの約100日間、実に「セイシュン」した日々でした。

この100日間で、ブラインドタッチができるようになりました。
この100日間で、mixiを始め、ブログを書き、議事録を書き、文章を褒めて頂きました。
この100日間で、アキバという異世界を垣間見ました。
この100日間で、子供を持つという自分の将来を、前向きに想像するようになりました。
この100日間で、自分ひとりではできないことを、みんなでやる楽しさを味わいました。
この100日間で、自己主張がうまくなりました。
この100日間で、「爽快な敗北感」が「くだらない優越感」よりもいいものだと気づきました。
この100日間で、集団の自浄作用に感動し、集団を・他人を信頼できるようになりました。
この100日間で、大好きな人がたくさんできました(「人間的に」ということです)。

この100日間で、自分のことが前よりもちょっと好きになりました。

特に後半は、研究を全く圧迫していないとは言えない日々でした。これは、持続可能なペースではありません。今後は活動の内容云々以前に、分量を十分に考慮する必要があると強く思っています。

アゴラで展示とWSの両方を手がけたこと、マンパワーと準備期間を鑑みると無謀だったかもしれませんが、0to1の「二つの活動」(研究者社会について当事者として考える、科学を非専門家と双方向的に楽しむ)を象徴するという大事な意義がありました。みんなめいっぱい無理したけど(特に両リーダーの献身的な働きぶりには頭が下がりますm(_ _)m)、間違いなくがんばった甲斐がありました。

これからお台場に行って、イベントのつづきを見届けたいと思います。
みなさま、おつかれさまでした。

2007年11月15日木曜日

科学と教養。

前回のミーティングで、「どうすれば、一般人に(数学を筆頭とした)基礎科学の重要性を説得できるのか」といった議論になりました。それに関して、昨日帰りの電車の中でとある人と話していたのですが(*彼が個人的な会話の内容にどこまで責任を持っているか分からないからとりあえず伏せておきます)、「それは人を殺してはいけないのはなぜというのと同等の議論で、理由なんてないけどダメなものはダメという次元の話なんじゃないか」と言われました。更に、教養の大切さも同様だと言われました。

ちょっと考えてみました。

「理由はないけど大切」ってどうよ?ということです。私は、一般的に教養の大切さを説く人があまり好きではありません。というのは、「これを知らないなんて、けしからん」「知っているべきだ」と、本来ならば個人の自由であるはずの知識に、善悪判断が入り込む人が多いからです。私が単に”なってないイマドキの若者”なだけなのかもしれないけど、そういうのはちょっと押しつけがましく感じてしまうのです。

科学でも、「私たちはおもしろい・大切だと思うからやってるし、そのおもしろさを分かってもらいたい」というのは自然。ただ、おもしろさが分からない人に対して、頭ごなしに「大切なんだから支持しろ」というのは押しつけがましいのでは、と思います。おもしろさを分かってもらえるように、熱く語るなり最大限の努力をして、ひくときは潔くひくぐらいがきれいかな。ただし、これは一般論なので、行政とか(ウワサの市長さんとか)、「この人をゼッタイ説得したい!」というときにはどうしたらいいんでしょうか。。。


ふぅ、ちょっと考えても特に進展した気がしないな...。



ちなみに、前述の彼は、自分が本当におもしろいと思っていることをオススメしてくれている様子なので、私もちょっと教養を身につけたいな、と思い始めた今日この頃です。

ということで、みなさんぜひ私を教育して下さい(笑)

2007年11月11日日曜日

しあわせとは両想い感だ!

「ところで、いま幸せな人〜!」
ミーティングで院生の現状について話していたとき、咄嗟にそう聞かれて、手を挙げたのは大木さんと私だったような気がする。でも、よくよく話していて一番幸せそうなのは、横山さんと岩崎さんと松尾さんだと思う。横山さんと岩崎さんは、「この仕事は自分がやるしかない!」という義務感(←使命感じゃないかなー)に駆られて、忙しくお仕事している様子。まぁ、松尾さんは言うまでもないけど...。私は、片想いかなぁ。研究に自由度は高いけど、その研究自体にどれくらい意味があるのか正直分からないから、使命感があんましない。とよたけくんは、ミッションの中できっと重要な仕事を任されていて、でも自由度が低そうに見えるので、想われてる側だと思う。

ということで、しあわせとは両想い感だ、というのが今回の結論でした。。。
いつの日かの両想いを目指して、がんばろうっと。

2007年11月6日火曜日

アキバ系への道は険しい。。。

今日は、展示の材料を探しに、ひとりで秋葉原に行って来ました。初アキバです。
三宅さんに教えてもらったお店にたどり着き、「LEDのライトを水中で光らせたいんですけど、そのために必要なものを一式下さい!」と言ってみた。「はぁ、漠然としすぎてわかんないんですけどー。」それがわからないから聞いてるんでしょ!!三宅さんにヘルプコールを繰り返し、お店の人とこんにゃく問答を繰り返し...。

結論。
アキバはアメリカより言葉が通じない。名詞が分からない、動詞が分からない、そのうえ内容が分からない。
バカの壁は言語の壁よりも厚いということを実感しました。

果たして展示は完成するのか!?乞うご期待。

2007年11月4日日曜日

日がな一日語らう。

今回は朝から晩までミーティングでしたー。おつかれさまです。議論のあとの焼き肉&マッコリがたまりませんでしたね(笑)

いよいよアゴラの準備も佳境です。

WSについての議論のなかで、ふと気づいたこと。研究対象のとらえ方と論点のとらえ方が似ている。
いきものを俯瞰的にとらえている人は、議論を一歩引いて見ているようです。
数学を愛している人は、直球勝負な感じ(笑)
私は個別研究をしているのですが、議論の中でも個別の論点やその間の関係などからボトムアップ的に全体をとらえようとします。

へぇ、いろんな専攻の人が議論するとこうなるんだ。

「研究対象のとらえ方と論点のとらえ方が似ている」って思ったとき、ふと高校生のときに観た「コペンハーゲン」というお芝居を思い出しました。このお芝居は、物理学者同士(ボーア、ハイゼンベルグ)が人間関係について物理用語で語らうというお話です。当時は、「どうしてわざわざ物理現象になぞらえる必要があるんだろう?どうしてムダに複雑に表現するんだろう??」と思いました。でも、今ついつい馴染みのある専門用語を使ってしまう自分に気づいたり(淘汰圧、ニッチ、分注...)、用語だけじゃなくて論点のとらえ方までというと、あのお芝居の設定もまんざら不自然ではないのかな。

用語はともかく、対象のとらえ方は「性格」ありきで「研究姿勢」があとから決まっているのかもしれないけど。
もはや、研究姿勢抜きでは性格を語れない気もするが...